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 柳田国男 (やなぎたくにお)

【分類】

 人物(mythologist and persons)

【解説】

 柳田國男(1875〜1962)民俗学者。日本民俗学の樹立者であり、その業績は民俗学全般にわたる。幼少のころより文才に秀で、また、和歌を松浦辰男に学び、青年時代には詩人(松岡國男)としても有名であった。

 その文学的才能が発揮されたのが、日本民俗学開眼の書と呼ばれ、柳田國男の最も著名な作品である『遠野物語』であろう。しかし、『遠野物語』は民俗学という意識を持つ前の書物であり、話者・佐々木喜善の話に柳田國男が脚色を加えている。この点において、民俗学でいう民俗誌とは、異なる。つまり、『遠野物語』は民俗学が成立するきっかけになった書物であることは確かであるが、民俗学の書物ではない、と私は考えている。つまり、『遠野物語』は文学に属するものであろう。

 柳田國男の著作は膨大な量があり、その全てを語り尽くし、大系だてて説明する事は難しい。神話と関係しそうな著作を思いつきで挙げてみても、『遠野物語』『山の人生』『妖怪談義』『妹の力』『桃太郎の誕生』『日本の祭』『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』『先祖の話』『海上の道』と多岐に渡る。

 柳田國男の学問的活動は「日本民俗学の樹立」であるが、それを動かした原動力はなんであっただろうか、と考えると、私は折口信夫が「先生の学問」のなかで述べた、「一口に言へば、先生の学問は、「神」を目的としてゐる。日本の神の研究は、先生の学問に著手された最初の目的であり、」と同様に、柳田國男の生涯の学問的主題は魂の行方を明らかにすること、神の発見、即ち日本人の宗教意識を明らかにすることであったとしたい。これは、国学者であった父・松岡約斎や和歌の師であった松浦辰男の影響が強いと思われる。松浦辰男は、歌道を弟子達に伝えるとともに、目に見えない世界、即ち幽冥界の話もしばしばしていたようである。田山花袋は、「一路を素直に、神秘の境に入って行かれた人だ。晩年には、幽玄の境に深く深く入つて行かれた。」と述べている。柳田國男は、その談話筆記である「旧派うたがたり」のなかでは、「どういう修養をされたのかわからないが、平田学以来の霊魂の存在を信じる所謂幽冥道を信じていられた。一人だと思って変なことをしたり、二人丈だと思って変な話をしたりすることは出来ないと云われていた。私は幽冥道を信じてはいなかったが、その感化はうけた。」と述べ、「萩坪翁追懐」では、「時として幽冥を談ぜられた事がある、然し意味の深い簡単な言葉であつたから私には遂に了解し得られなかつた。「かくり世」は私と貴方との間にも充満して居る、独りで居ても卑しい事は出来ぬなどと折々云はれた。」と述べている。松浦辰男がこのように平田篤胤以来の幽冥観を持った人間であった事は、後の柳田國男の民俗学を考える上で重要な点である。柳田國男が、明治三十八年九月に『新古文林』に発表した「幽冥談」の中で、ある人が柳田國男のみに語ったという不思議な話が紹介されている。ある人の家にいた下男が何度か鞍馬に通ううちに天狗になってしまった、と言うのである。このある人とは、京都に住んでいること、妻が二十三四歳で死んだ妻が幽冥を良く見ることの出来る人であったこと等から松浦辰男のことであると考えられる。事の真意は別として、この話から松浦辰男が幽冥界や天狗の話を信じていたことをうかがう事ができる。松浦辰男は柳田國男に平田篤胤以来の幽冥観やこのような現世と幽世の話をしばしばしたのであろう。柳田國男は、父・松岡約斎が本居宣長や平田篤胤に影響を受けた神道学者であったことから、既に松浦辰男の話を聴く土壌は形成されていたと考えられる。もとから、昼に星を見たりする神秘的な体験を通してこの世ではないものに強い興味を持っていた柳田國男は松浦辰男の語る幽冥の話を聴き、幽冥界に対する興味をさらに強くしたのではなかろうか。先に挙げた「幽冥談」はその結晶の一つであろう。この点から考えると「幽冥談」の次の一文などは柳田國男の学問的主題をはっきりと述べているように思える。「どこの国の国民でも皆なめいめい特別の不可思議を持っている。<中略>それは皆な違った特色を持っておって、これらを研究していったならば一面に国々の国民の歴史を研究することができるであろうと思う。」「幽冥談」では、天狗の事が中心に語られているが、死後の世界の観念も同じように考えていたであろう。

 「幽冥談」から四十年後に書かれた『先祖の話』の中に日本人の死後の観念についての結論が述べられている。この『先祖の話』は、柳田國男の死後の観念を示した一つの到達点であった。柳田國男はこれを第二次世界大戦で死んでいった人々の鎮魂の方法を探ろうとした。一番重要なのは次の一文である。「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思ふ一つの点は、日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まつて、さう遠方へは行つてしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、可なり根強くまだ持ち続けられて居るといふことである。是が何れの外来宗教の教理とも、明白に喰ひ違つた重要な点であると思ふのだが<以下略>」私は、この結論の中に、松浦辰男の影響を見る。松浦辰男が平田篤胤以来の幽冥観を持った人であったことは、先に述べた。その平田篤胤は死者の魂の行方について『霊の真柱』の中で、「さもあらば、此国土の人の死にて、その魂の行方は、何処ぞと云ふに、常磐にこの国土に居ること、古伝の趣と、今の現の事実とを考へわたして、明かに知らるれども、」と述べている。これは、柳田國男が『先祖の話』で述べた観念とほぼ同一であるといえる。柳田國男は若き日に松浦辰男からこのような話を聴き、それが『先祖の話』に強く影響したのであろう。また、柳田國男は「魂の行くへ」のなかで、「出来るものならば、いつまでも此国に居たい。さうして一つの文化のもう少し美しく開展し、一つの学問のもう少し世の中に寄与するやうになることを、どこかささやかな丘の上からでも、見守って居たいものだと思ふ。」と述べている。柳田國男は魂の存在を信じていた。実際、柳田國男は「魂の行くへ」で述べたように、小高い丘である川崎の春秋苑に墓を決めている。このことから、『先祖の話』の結論は柳田國男自身の幽冥観であったとも考えられる。この幽冥観は、「かのたそがれの国にこそ こひしき皆はいますなれ  うしと此世を見るならば  我をいざなへゆふづつよ (夕づつ)「野辺の小草」」のように幽冥界に対する憧れを歌った詩歌。先に挙げた「幽冥談」。さらに後の『遠野物語』。そして数々の論文を経て、晩年の『先祖の話』や『海上の道』に結びついていったのであろう。松浦辰男から受けた幽冥に関する興味は、生涯考え続け、柳田民俗学の主流の一つとなっていったのである。昭和三十七年八月八日、民俗学者柳田國男は心臓衰弱のため、憧れて止まなかった幽冥界の人となった。墓は、柳田國男が生前決めていた通り、子孫の行く末を見守ることができる川崎の春秋苑に建てられた。


春桜庵主人






【参考文献】

『定本柳田國男集』筑摩書房
『柳田國男を読む』アテネ書房
『柳田國男伝』三一書房
『柳田國男研究』
『折口信夫全集』中央公論社
『日本民俗事典』大塚民俗学会編 弘文館