別に公時、坂田(酒田)金時、怪童丸、怪童金時などの呼び名がある。
鉞(まさかり)を肩にかついで熊に乗り、赤い肌に前掛けをした姿の剛力の童子。山姥の子で足柄山に住んでいたといわれる。
五月人形の題材にとられ、出世、強健、武勇などを象徴する、男子の守り神のような存在。
源頼光の四天王のひとりであった坂田金時の幼少の頃がモデルといわれるが、実際のところ五月人形などに見られる童子の姿は、金時とはあまり関係がない。
ただし金時は酒を飲んで顔が赤いと書かれていることもあり、その点は金太郎と共通する。
金太郎伝説は、現在足柄山以外にも広く残っている。公時はもともと東国(関東)の武士でそれが京都に来ていたため、関東−近畿間の広範囲に伝承が残ったのだろうか。
金時は、古くは藤原道長が書いたといわれる『御堂関白日記』の1017年の記に現れる。特に名字をもっていない(下毛野とも)公時という名で、道長の近衛兵の中でも秀でていたが、18才で死んだとなっている。この時公時は、「相撲使」の役割だったとされる。これは相撲取りのスカウト役のようなものといわれているが、正確なところはわからない。
またその死後約100年で成立した『今昔物語集』では、源頼光の郎党として四天王のひとり平(占部)季武と共に、名字のない公時として登場している。
この後、江戸時代となって浄瑠璃や歌舞伎の中で坂田金時の名でマサカリなどを手に活躍するようになる。源頼光の四天王と呼ばれるようになるのも、この頃からだ。
酒田(坂田)という氏族は平安中期の箱根足柄峠付近、現在の足柄上群開成町酒田を本拠地にしていた豪族のようだ。ただし、金時が本当にこの一族であったかは少々疑わしい。
他に雷の神の赤竜が、金太郎の父だとする話もある。
中国系の雷神にはマサカリを持つ姿のものがあり、ここから金太郎がマサカリを持つようになったともいわれる。ただし、単に山に住むものの武器として、マサカリが適当であっただけの可能性も高い。
そして、現在の金太郎像の原型である、怪童丸が近松門左衛門作の人形浄瑠璃『嫗山姥(こもちやまうば)』に登場する。ここでは、頼光と怪童丸は現在の長野県の金時山で出会うことになっており、「(山姥の子として生まれた)五、六歳の男子で、肌の色は真っ赤であり、鹿、狼、猪などを引き裂いて積み重ね、木の根を枕に横になったりする。まさに鬼の子だ。」とされている。熊と相撲を取るのもこの怪童丸だ。この名残から、現在も怪童金時と呼ばれることがあるのだろう。
また同じくこの頃、別に源頼光が足柄山で金時に出会う定型が生まれている。これによると、頼光と金時が出会うのは976年のこととなっており、前述の『御堂関白日記』とは食い違っている。
それらの後まもなく、この金時と怪童丸は、金太郎と呼ばれるようになる。おそらくは、金時の幼名として金太郎が考え出されたのだろう。
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