江戸時代後期の国学者。通称・春庵(舜庵)。のち号して鈴屋。
荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤等と供に国学の四大人とされる。この中では、国学を完成させた人物に位置づけられるであろう。
宣長は1730年、父・小津定が吉野水分神社に祈願して産まれた。この事について、本居宣長は「家のむかし物語」のなかで「道樹君、嫡嗣は道喜君おはしけれども、なほみづからの子をも得まほしくおぼして、大和国吉野の水分神は、世俗に、子守明神と申て、子をあたへて守り給ふ神也と申すによりて、此神に祈り給ひて、もし男子を得しめ給はば、其児十三になりなば、みづから率て詣で、かへり申し奉らんといふ願をたて給へりしが、ほどなく恵勝大姉ははらみ給ひて、亨保十五年庚戌の五月七日の夜子の時に、宣長生給ひぬ。」と述べている。
当初、伊勢山田の商家の養子となるが、歌や書物を好み商売に関心が向かなかった為、実家に戻る。宣長の読書量は人並みはずれていたらしい。本人は「学問の為であるとか、ではなく、手当りしだいに古い近い関係なく日本や中国の本を読みあさった。」と述べている。
宣長は医師修行の為の京都遊学中に師である掘景山の書を通じて契沖の説に巡り会い、古典研究の方向を見い出したとされる。このころの手紙の中で宣長は、「天地万物、皆吾賞楽の具なるのみ」という言葉を書いている。つまり全ての物は私の見て楽しむ物である、という意味である。この姿勢は宣長の基本姿勢である。五年間の修行の後、故郷の松阪に戻った宣長は小児科医開業の傍らで、古典研究を行い、それに関しての講議を行っていた。このころ研究を通じて文学の心髄は「もののあはれを知る心」であるという独自の見解を確立した。「もののあはれ」とは、「何ごとにしろ感ずべきことに出会ったら、心を動かすこと、である。」つまり、儒教や仏教的道徳に捕われず、美しい花を見たら美しいと感ずる心である。後の『古事記』を理解する為には「漢意」(儒教的価値観等)を排除しなければならない、とするのはこの事からである。つまり、読んで感じたままが良いのであり、そこに別の価値観が挿入されると物語(神話)の解釈が全く異なってしまう、という意味であろう。事実、江戸時代には儒教的価値観による解釈がなされていた。
1763年、宣長は後の彼の人生に大きな影響を及ぼす人物と出会う。国学の四大人の一人である賀茂真淵である。真淵は当時『万葉集』を研究してすでに有名な人物であった。宣長は真淵が旅の途中松阪へ立ち寄ったことを知り、その宿である新上屋に駆けつけ真淵との体面を果した。この時、60歳を超えていた真淵は宣長に「私は『万葉集』を研究し、その後に『古事記』を研究しようと思ったが、老いてできそうもない。あなたはまだ若いのだから、心掛けて『古事記』研究をなさい。」と諭したと言われる。これが有名な「松阪の一夜」である。この翌年、宣長は正式に真淵に入門し、手紙によってその教えを受けることになる。
宣長は真淵の教え通り、『古事記』研究に力を注ぐ。その成果が完成に35年を要した『古事記伝』である。『古事記伝』は1769年に完成した。宣長はこの著に文字通り半生をかけた。この『古事記伝』は現在に至るまで『古事記』研究の最高峰であり、これを超える研究書は出ていないといっても過言ではない。また、『古事記』の訓読も宣長の訓読が基礎になっている。宣長は『初山踏』という学問入門書を書いているが、その冒頭で言っているのは「自ら選んだ学問は、年月長く怠けずに続けることが肝要であり、学び方はどのようであっても良い。才能は生まれついての物だから仕方がないが、長い研究でそれも乗り越えられる。暇が多い人よりも、暇が少なくとも長く研究をした人のほうが成果を出すことも有る。とにかく、学問は途中で断念することなく長く続けなさい。」と述べている。これは『古事記伝』を完成させた実感の様なものであろう。
宣長の『古事記伝』によって我が国の文学・語学研究は飛躍的に進歩した。この成果はその後の研究の基礎を固めたとも言える。
宣長の『古事記伝』執筆の背後に有るものは、『古事記』の中から日本人の精神性を見い出そうとする姿勢であり、その発展としての神道及び神道神学ではなかったか。宣長自身も『古事記』等の神代紀(『古事記』や『日本書紀』の神代の部分)を学ぶことを「神学」これを学ぶものを「神道者」と呼ぶとしている。この日本人の精神性の追求は、後に折口信夫や柳田國男によって「日本民俗学」として引き継がれることになるのだが、この事は別項でふれたい。
宣長は『古事記伝』を完成させた3年後の1801年9月に72才で没した。戒名は高岳院石上道啓居士。諡号して秋津彦美豆桜根大人(アキツヒコミヅサクラネノウシ)。遺体は遺言に従って伊勢湾が見渡せる松阪郊外の山室山に埋葬された。(また、参り墓として松阪市内にも墓がある。これも宣長が「遺言状」で二つの墓を指示している。)宣長は諡からもわかるように桜を愛した。墓にも「遺言書」に上等の桜を植えるように、と書いている。この「遺言状」はじつに奇妙なもので、遺産相続についてはほとんど触れず、葬儀や墓についての事細かな指示に終始している。諡も生前に自分で決め「遺言状」に書いている。宣長は自分の葬儀を紙上で行ったのではなかろうか。彼の最後の思想実現であったのかも知れない。
宣長が桜を愛した事は先にふれたが、これは凄まじいもので「枕の山」という空想で見た桜ばかりを詠んだ歌集まである。宣長が詠んだ桜の歌の中で、最も有名なのが61才の時の自画像に書いた歌である、「しき島のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」であろう。第二次世界大戦中は歪んだ解釈がされていたようだが、本来の意味は「日本人の心を訪ねられたならば、朝日に匂う山桜の美しさを感ずる心である」だと私は捉えたい。これこそ宣長の思想の中心に有る「もののあはれ」であるからである。
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