802〜852。平安時代の文人・貴族。野相公、野宰相と称される。小野小町の祖父。篁は、毎晩冥府に通い、閻魔王庁で裁判を手伝っていた人物としても知られる。篁がまだ学生であったときに、罪を犯した。そのとき、藤原良相(よしみ)が篁のために弁護をした。歳月が流れ、篁は参議となり、良相も大臣になっていた。そのうち良相は重病となり、他界した。直ちに閻魔王の使いの者にからめ捕らえられて、王宮で罪を定められようとした。見ると、閻魔のかたわらに篁がいる。篁は閻魔に「この大臣は、正直で良い人だ。篁に免じて許してくれないか」と言う。閻魔は「篁がぜひにもと言うのならば、許してやろう」と答える。こうして良相は、生き返った。ある日、良相が内裏に行くと、篁がいた。あのおりの閻魔王庁でのことを尋ねた。篁は「先年、私のために弁護をしてくれたお礼をしただけ。決して人に話しなさるな」と言う。話を聞いて、良相はますます篁を恐れながら、「篁は普通の人間ではない。閻魔王庁の臣であった」と知った。このことは自然と世間に聞こえ、人々は、「篁は閻魔王宮の臣として冥途に通っている人だ」と恐れたという(「今昔物語集」)。同じような話が、大江匡房(おおえのまさふさ)の「江談抄(ごうだんしょう)」にも記されている。篁が、藤原高藤(たかふじ)に車の簾を切られるという事件が起こった。篁はそのことを高藤の祖父の冬嗣(ふゆつぐ)の家へ行き、事情を話していた。すると、突然、高藤が気を失った。篁が高藤を起こすと、息を吹き返したが、高藤は庭に降りて、篁を礼拝し、「気を失い、閻魔の庁へ行ったが、篁が閻魔の庁の第二の冥官として座っていた」と語った。それで、高藤が篁を拝んだというのであるが、平安時代、篁は冥府へ通う得体の知れない人物として、人々から恐れられていたものであろう。京都の六波羅蜜寺近くの六道珍皇寺境内の閻魔堂には、閻魔大王と篁の木像が並んでいる。寺の裏には篁が冥界へ通っていたという井戸がある。篁は、この井戸から毎晩閻魔の庁へ出かけ、裁判を手伝っていたのである。そして、嵯峨の清涼寺横の薬師寺境内の井戸(生の六道)から、この世に戻って来たという。
「篁物語」は、篁と恋仲になった異母妹が、やがて仲を割かれたことから悶死し、亡霊となって現われるという、奇怪な作品である。この物語を踏まえたものか、「発心集」にも、「昔、小野篁の妹の失せて後、夜な夜な現(うつつ)に来たりけるは、もの言ふ声ばかりして、さだかには手に触(さは)るものなかりけるとぞ」と記されている。冥府に通っていた篁と幽霊になった妹。そして、謎多い美貌の歌人小野小町。小野一族には、ミステリアスな人物が多い。
篁は才知のある人物であった。あるとき、「無善悪」という落書があった。嵯峨天皇が篁に「読め」と命じる。篁は「読むことは読めますが、さしさわりが……」と言って読もうとはしない。しかし、天皇の命令で、やむを得ず「悪(さが・嵯峨天皇を指す)無くば善(よ)けん」と解読した。嵯峨天皇は「このようなことを書けるのは、その方しかおるまい」と言い、篁は、自分が犯人でないと主張する。帝は、そこで「子」の字を12個書いて、読めと命じた。篁は、「ネコノコノコネコシシノコノコジシ」(猫の子の子猫、獅子の子の子獅子)と読んで、罪とされるのを免れたという。だが、やはり嵯峨天皇の時代、遣唐副使に任命されたものの、乗船せずに、隠岐の島に流罪になった。隠岐へ流されるとき、「わたのはら八十島かけてこぎ出ぬと人には告げよあまの釣船」という歌を詠んだのは有名。墓は、京都の堀川通り北大路(北区紫野)に、紫式部の墓と並んでいる。また、滋賀県志賀町には小野篁神社があり篁を祀っている。
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