786〜842。平安初期の天皇。能書家でもあり漢詩人。第52代天皇(在位809〜823)。桓武天皇の第2皇子(一説に第6皇子)、母は皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)。諱(いみな)は「賀美能(神野・かみの)」。漢詩文に長け、勅撰詩集の編纂を命じたり、国政の整備にも努め、蔵人所(くらうどどころ)を設置したり、死刑を廃止したりもしている。三筆の一人で、能書家・名君として名高い。
まず天皇自身に関するものとして、その諱のいわれがある。「日本霊異記(にほんりょういき)」によると、嵯峨天皇は寂仙(じゃくせん)という名僧の生まれ変わりだという。寂仙が入滅の時「自分が死んで、28年後に、神野という、国王の子が生まれる。それによって私が生まれ変わったと知るであろう」と言い、その通り、28年後に生まれたのが嵯峨天皇だと伝えている。嵯峨天皇が空海・最澄の二人を厚遇し、真言・天台の新興仏教の流布に貢献したのはよく知られるところであるが、これは、そういう天皇の態度を裏付ける逸話といえよう。「拾遺往生伝(しゅういおうじょうでん)」には、最澄の死に際しては、六韻の詩を作り、勅により寺額を「延暦寺」と号せさせ、法印大和尚位を贈ったという。また「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」によると、弘仁9年の疫病流行の際、自ら般若心経を写経し、空海に供養させたという。
また、書に関するものや文化人との交わりの逸話も残っている。ある時嵯峨天皇が空海に、中国伝来という手本を見せ「誰が書いたもの定かではないが、すばらしい」と賞賛すると、空海は「これは自分が唐に留学している時に書いたものです」と言った。書風があまりに違い、天皇が信用しようとしなかったので、「唐は大国、日本は小国であるから、書風をそれにふさわしく、場所をわきまえて変えているのです」と答え、天皇は感服した。軸に隠れた部分に空海が唐の青龍寺(せいりゅうじ)で記した旨が書いてあったという(「古今著聞集」)。この他にも「江談抄」「古今著聞集」に書に関する逸話がみられる。
文化人との交わりといえば、「江談抄」「宇治拾遺物語」「十訓抄(じっきんしょう)」「類歌古今集」「世継物語」「東斎随筆」等にある、小野篁との問答が有名である。ある時「無善悪」という落書きを、博学の篁に尋ねると「さがなくばよし(さがなくてよからん)」と読み解いた。誰も読めなかったものを読んだのだが、これは嵯峨天皇がいなければよいという天皇を呪った内容であったので、落書きの犯人にされそうになった。そこで、身の潔白を示すために、天皇から出された文字を読み解いて難を逃れたという話である。この時、篁が読まされたものは「一伏三仰不来侍、書暗降雨恋筒寝(月夜には来ぬ君またるかきくもり雨も降らなむ恋つつも寝む)」と「子子子子子子、子子子子子子(ねこのここねこ、ししのここじし)」というふたつがある。また「撰集抄」には、篁の漢詩を称えて参議になしたと話しなどもある。
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