過去、大分県別府湾にあり、江戸時代に一日にして海中に没したと伝えられている伝説の島。
『豊府聞書』などにかかれた伝説や昔話では、瓜生島は大分市の沖400〜500mの別府湾内にあり、周囲約12kmで、人口5000人ほどの島だったという。
現在大分市住吉町にある住吉神社は、もとは瓜生島にあったものを移してきたものとされている。
<昔話の中の瓜生島>
昔、別府湾に瓜生島という島があった。
島には蛭子社で木彫りのエビス様を祀っており、『エビス様が怒って顔が真っ赤になると島が沈む』という言い伝えがあった。だから島の人々は信心深くし、エビス様を丁重に祀って暮らしていた。
ある時、ある若者がイタズラをして、エビス様の顔を真っ赤に塗ってしまう。
赤くなったエビス様の顔を見た人々は皆、大急ぎで船で島から逃げ出した。
エビス様の顔を塗った当人の若者は島にいて、慌てて逃げる人々を笑いとばしていたが、そのとき島がぐらぐらと揺れはじめ、大きな津波が島を飲み込んだ。
島の人々は助かったが、瓜生島は跡形もなく海に沈んでしまったということだ。
他に白馬に乗った老人が「島が沈むから逃げろ」と急を告げる形式もある。
<実在の瓜生島>
瓜生島に関する最初の記述をしたのは1699年に戸倉貞則が著したとされる『豊府聞書』であったとされるが現存せず、その写本もしくは異本とされている『豊府紀聞』(全7巻)が日本最古の現存する”瓜生島”の沈没に関する文献となっている。これ以前の古文書には”瓜生島”という記述は見られず、瓜生島の条件に該当する地は全て”沖の浜”と書かれていることから、”瓜生島”という名称を用いたのはこの書が最古ということになる。
以後『豊府聞書』と『豊府紀聞』などをもとに、”瓜生島”の沈島伝説が語られることとなった。
しかし実際のところ伝説には尾ひれが付きがちであり、古地図には瓜生島や他の島々が書き足されたものが、ある時期から突然現れている。
それらの国内資料や国外資料、加えて近年の地質学などの調査研究により、瓜生島が沈んだとされる地震や津波が起こったのは、1596年9月4日(文禄5年(慶長1年)閏7月9日で紛れもない事実だと解っている。
震源地は、別府湾南東部でマグニチュード7.0程度の地震が起こったのではないかということだ。潤7月3日〜11日にかけて、微震などは続いたらしい。
別府湾の海底には複数の正断層がほぼ東西に走っており、おそらくこの正断層の活動が、直下型の地震を引き起こしたのではないかと考えられている。
地震により起こった津波で別府湾岸には大きな被害があり、各地で崖崩れなどがあったとのことだ。津波の被害を受けた場所の中に、瓜生島だったのではないかといわれる”沖の浜”の地名(村名)が見える。
地震が起こりそれを原因とした津波が、ある場所とそこに住む人々を飲み込んだのは歴史的事実だが、問題は瓜生島が島として存在し、そして本当に海中に沈んだのかどうかだ。
『豊府紀聞』と同じ、もしくはそれ以上に歴史的資料として信憑性が高いとされている瓜生島に関する記述は、ポルトガルの宣教師であるルイス・フロイスが、イエズス会への報告として送った書簡のうちのひとつで、『日本において1596年に起こったいくつかの奇跡の概説』としてまとめられた物の中に残っている。
それは『豊後の国について』と題されており、地震の際”オキノファマ”などに約4mの津波が押し寄せ、海岸から約2kmに渡って浸水の被害を受けたと書かれている。フロイスは1563年に来日した後日本で暮らし、1597年に長崎で没しており、地震の100年後に書かれた『豊府聞書』などよりは信憑性が高い。
”オキノファマ”を襲った災害で生き残ったのは唯一人のクリスチャンだけだったとフロイスは続けており、宗教的な誇張があるにせよ、”沖の浜”は被害の中心であったのだろう。
沖の浜は、実在した地名で多くの書に記述が残っている。
例えば1555年、中国の明の使節、鄭瞬功が台風のため豊後に漂着した。彼は3年後帰国し日本での見聞録を綴った『日本一鑑桴海図経』を著したが、その中で彼は、最初に入港したのは”澳浜”であると書き、府内(現大分市)沿岸は遠浅で船が停泊できなかったと書いている。
またスペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルが大友の館を訪ねる時、一度”沖の浜”に停泊し、それから小舟で川をさかのぼり館に入ったとされている。ちなみに一代後のキリシタン大名として有名な大友宗麟は、1578年49歳の時にキリシタン嫌いの婦人と別れ、洗礼を受けている。
またフロイスと同時代頃の『ポルトガル船アジア諸国航海路程記集』の中に、府内沿岸の海底は白砂であり、”アキナファマ”という錨地に接続していると書かれていたようだ。
またフロイスも、府内の近くに3哩(3〜5km)離れた”オキノファマ”と呼ばれる大きな村があり、多くの船の寄港地であり揚陸地だと書いている。
伝説中で瓜生島は漁師町だったとされていることが多く、かなり栄えた港だともされているので、やはり”瓜生島”は”沖の浜”と同じ場所を指していると考えるのが妥当だ。
ではなぜ『豊府聞書』などは”沖の浜”という名を使わずに、”瓜生島”としたのだろうか。
瓜生島という地名は、1223年初代豊後国司大友能直が編纂したといわれる『うえつふみ』の中に、ウリウハマ、ウルノオハマ、ウリフノトと現れている。それぞれ字を当てると、潤浜、潤のお浜、潤の戸と解釈できる。
つまりウリウジマというのは瓜の生える島を表すのではなく、もともと潤島という意味の土地名、ともすれば地形名で、潮が満ちてくれば小さな島となるが、潮が引けば大きな砂浜を広げ砂州で陸地と繋がるような土地だったのではないだろうか。
それならば、沖にある浜を示す”沖の浜”と”瓜生島”のふたつの呼び名は、全くの同義なのだ。
東海大学瓜生島調査会はその科学的な調査結果に基づき、「大分川河口付近に大部分が砂質土で構成される島が存在し、地震が原因で島のある部分は液状化により全面海域に流失し、他の部分は地滑りなど大規模な陥没を生じ水没した」との仮説を立てている。
もちろんそれは瓜生島が実在したとの見地に立ってのものではあるが、十分信頼に足るものではないだろうか。
<参考>
上記のように瓜という字自体には植物の瓜の意味はないはずだが、日本の伝説中には、瓜から大量の水が出る話が多く伝わっている。
また瓜子姫の話も水神小童の話形に属する話で、カヤの根本はなぜ赤いかの由来を天の邪鬼を引きずり回したためにその血で染まったと説く形もある。天の邪鬼は一部では海若と書き、水神とも考えられている。
エビス様は、蛭子と書いて別にヒルコと読むイザナギとイザナミの子で、不具であったために海に流されたとされている神だ。
瓜生島伝説の個々の要素は、それぞれ奇妙な繋がりを持っている。
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