度索山とも書かれる。
『論衡』訂鬼篇、『太平御覧』引漢旧儀、『史記』五帝本紀集解、『続礼儀志』注などに散見し、また『風俗通』、『独断』に見えている。 もと『山海経』の海外編に載せられていたとも考えられているが、現在に残る山海経に該当する記述はない。
王充は『論衡』において、以下のように書いている。
”山海経には又曰く、「滄海の中に、度朔の山有り。上に大桃木有り、その屈蟠すること三千里、其の枝間の東北を鬼門と曰(い)ひ、萬鬼の出入する所なり。上に二神人有り。一は神茶(しんと)と曰ひ、一は鬱壘(うつりつ)と曰ひ、萬鬼を閲領するを主(つかさど)る。悪害の鬼は、執(とら)ふるに葦索(いさく)を以てして、以て虎に食わしむ。是(ここ)に於て黄帝乃ち禮(れい)を作り、時を以て之を驅(か)り、大桃人を立て、門戸に神茶、鬱壘と虎とを畫(えが)き、葦索を懸け、以て凶魅を禦(ふせ)ぐ」と。」”
(”山海経にはまた、「東海の中に度朔山がある。頂に大きな桃の木があって、三千里にも渡って蟠屈しており(渦を巻くように曲がりくねっており)、その枝の間の東北を鬼門といい、多くの鬼が出入り口となっている。頂には二人の神が居て、ひとりを神茶、ひとりを鬱壘といい、悪鬼を調べ取り締まる役目を負っている。害をもたらす鬼を葦の縄で捕らえて虎に食わせる。このことをもとにして黄帝は礼の決まりを作り時々これを払い、桃の木でつくった大きな人形を門戸に立て、門に神茶と鬱壘そして虎を描いて葦の縄をかけ、凶悪な物の精鬼を防いだ」と。”)
上記のように、度朔山伝説は鬼門と桃の辟邪の力の由来とを示す内容となっている。また蟠木、蟠桃として王母桃との関連をもつ。
異説として『玄中記』などには桃都山と書かれている。桃都と呼ばれる枝と枝との間が三千里もある大木のてっぺんに天鶏がおり、この鳥は太陽の光が差すと鳴き、それに続いて他の鶏が鳴くとされている。
また同じく『玄中記』では、桃の木が扶桑の木となっている記述もあり、蓬莱の東の岱輿の山に生えているとされている。
この巨大な扶桑樹は、『淮南子』や『山海経』で、東の果てにある暘谷のほとりに立つとされ、その枝に10個の太陽がぶら下がるとされている。
なお10個の太陽は十干に関わり、ゲイ(※Unicode:7FBF)の十日説話や日月の入る霊山にいるという十巫と関連性がある。
『海内十洲記』では、碧海の中央にある扶桑の上には太帝の宮殿があり、太真東王父がそこに役所をもっているとされている。
<王充の『論衡』>
後漢の王充(おうじゅう 27〜101?)は、徹底した反俗精神の持ち主で、虚妄を憎み真実を愛したとされている。
”衡”は物の軽重をはかる器のことで、衆論を是正し、曲直をはかり正す論の意から『論衡』の名が付けられている。
『論衡』はその中で五行説を多く取りあげており、度朔山伝説に関する『山海経』からの引用部分にも五行説で中央を示す黄帝が登場している。黄帝の名は五行説の流行と共に多く使われるようになったようだ。
そこから考えると、王充が目にしたと考えられる山海経は、五行説に従って書き加えられた比較的新しい部分を含んでいたのではないかとも考えられる。
王充の性質や他の書物に散見する記述から考えても、王充が引用に用いた『山海経』は実在したのだろう。
なお『論衡』物勢篇においては、現存する書物で最も古く五行説に干支を当てはめた記述なされており、『論衡』は五行説に関する書物の中でも重要な位置にある。